レオス・カラックスとの時間
個人史にとんでもないことが起きてしまいました。
2013年1月28日、いつものように朝仕事場へ行くとスタッフのM女史が「そかべさん、この試写会、今日ですよー」というのです。
彼女が持ってきたのはレオス・カラックス監督の新作『ホーリー・モーターズ』の試写会の案内状。
カラックス監督の新作の案内が届いているというのは知っていました。
「今日は監督も映画館にいらっしゃって記者会見されるそうですよー」
え?!
え?!
レオス・カラックスという人は1983年に映画『ボーイ・ミーツ・ガール』で監督デビューしたフランスの映画監督です。
1986年の第2作目『汚れた血』が日本でもたいへん話題になり、当時ぼくが愛読していた雑誌<宝島>でもニュース欄で「アンファンテリブル(おそるべきこどもたち)現わる!」みたいに大きく取り上げられていた記憶があります。
「アンファンテリブル」はジャン・コクトーが使った言葉で、20代半ばという若さでフランス映画の歴史を塗り替えるような瑞々しい傑作を作ってしまったカラックスを指してぴったりな表現でありました。
それを見た十代半ばのぼくは(監督とぼくはほぼ10歳の年齢差)映画がこんなに自分のこころに抜き差しならないほどに食い込んでくる、ということを初めて知りました。
名作はいつも「名作」という名札を付けてそこにいました。もしかしたらぼくにとっての名作は作られてずいぶん経つ、評価が定まったものが多かったからかもしれません。
ジミーもトラビスも、ぼくの好きな映画のなかのヒーローたちは、どこか遠くの古めかしい豪奢な椅子に座っているようでした。
だけど『汚れた血』の主人公アレックスは、なんかとても自分に近く感じたのです。僭越ながら。
だから、とてもなんというか、コピーしました。服装とか。煙草の吸い方とか。おなじトランプを手に入れたり。真似しました。
そしてなにより、こんな人生をこんな今日という日を送りたい、と真剣に思っていまの自分がある気がします。
アレックスを演じる俳優ドニ・ラヴァンは監督の分身とも言われて、雰囲気や背格好もふたりはよく似ていました。そして、何かの写真で見たカラックス監督はパンクロッカーみたいでおなかをすかせた野良猫みたいで、とてもかっこよかった。
キューブリックも鈴木清順も、ぼくにとっての最高の監督はそのときすでにみんなおじいさんでした。
カラックスには強烈な同世代感を持ちました。僭越ですが。
このころから、彼はぼくの英雄になりました。
『汚れた血』のビデオを繰り返し再生しながら、じぶんもいつかこんな恋をするのだと夢想していました。オートバイの後ろに素敵な女子を乗せて疾走するんだと。
このへんでぼくのカラックス映画に対する思い入れを話すのをやめないと、一晩中かかっても終わらないので。
三作目『ポンヌフの恋人』、その次の『ポーラX』。
どちらも異常なまでのドキドキを抱えながら映画館へ足を運びました。
そして待つこと13年。
ついに最新作が完成したのです。
というわけで、いそいで帰宅し、カラックス作品に臨むためのしかるべき服装に着替え、渋谷ユーロスペースへと自転車を飛ばしました。
会場には一時間以上前についてしまい(完全に一番乗り)すこし外で時間をつぶしました。
事務所のM女史からは「ぜったいに監督とお話しできると思いますよー」と、フランス語のあいさつなどがメールで送られてきましたが、いやお話はないでしょ〜とぼくは笑っていました。
そして映画が始まりました。
素晴らしい作品でした。
すぐにでももう一度観たい、謎と神秘と優しさと冒険と愛に満ちた映画でした。
なかなか、この気持ちを表現する言葉を知りません。
観客の期待をすべて裏切って、その先を行くパワーはとんでもないものがありました。
とてつもない映画でした。咀嚼するのに何年も、それこそ生きている間じゅうかかるのかもしれません。だから深く心に残ってしまうのでしょう。
映画が終わり、このあと休憩を挟んで監督をお迎えしての記者会見があります、というアナウンス。
スクリーンの前に椅子がふたつ置かれます。
ぼくは二列目に座っていましたから(いつもは最前列なのですが、そこはマスコミ用だということで)、このまま座ってればぼくの2メートルほど前にカラックス監督の顔が来るのだと思うと、ドキドキで背筋が寒くなりました。が、ぼくは記者会見に参加することに決めました。そして、できればインタビューもしようと、緊張のあまり大胆な計画を押さえる余裕もなく、そんなことまで決意してしまっていました。
時間が来ました。
進行役の女性が「では、レオス・カラックス監督をお招きしたいと思います」と言い、少しあとから、サングラスをかけ帽子を浅くかぶった痩せた不機嫌そうな男性が入ってきました。
ドキドキをなんとか押さえつけ、そのルックスを凝視しました。
かっこいい。。。。
そして記者会見が始まりました。
「質問ある方は挙手で」という声を聞き終わるかどうかというタイミングでぼくは手を上げ続け、四回繰り返したところで「では、まんなかの男性」と、みごと当てられたのです。
ぼくはこの目の前にいる不機嫌そうなにこりとも笑わないサービス精神のかけらも持ち合わせていないような映画監督に、ぜひ聴いてみたいことがありました。
それはぼくも常々思い悩む事柄でもあります。
「監督は観客をどのくらい意識して映画をつくるのですか?また、監督にとって観客とはどういう存在なのですか?」
通訳の女性が淡々とそれをフランス語に訳します。
カラックス監督はサングラス越しにじろりとぼくを一瞥して、こう言いました。
「映画をつくるときに観客のことはまったく意識していない」
ぼくは「おおおお〜」と心のなかで低い歓声を上げました。
そして監督はこう続けました。
「観客がなんなのか、どういう存在なのか、自分にとってはまったくわからない。謎の存在でしかない。ただ自分にわかっていることと言えば、彼らがある一定数の一団で、やがて死に行く運命にあるということだけだ」
すべて録音していたので、あとで聴くと自分の声が震えているのがわかります。
監督のこの言葉はぼくの生涯の宝となるでしょう。
忘れることは、たぶんないでしょう。
その後もいくつか質問が続き、監督は面倒くさそうではあるけれど、それに丁寧に答えていき、記者会見は終了しました。
ぼくの「時間」は終わりました。
言葉にならない幸福感で映画館の階段を降りました。
ビルを出るとしかし、そこにカラックス監督が煙草を吸いながら立っていました。
「時間」は、まだすこしだけ続いていたようです。
ぼくは、とっても恥ずかしかったですが、カバンからペンと『ホーリー・モーターズ』のプレスリリースを取り出し、「エクスキュゼモァ?」とそれを監督に差し出しました。
監督は走り書きのサインをしてくれました。
ぼくは監督に「グレイトムービー!」と言いました。
監督はぼくに「サンキュー」と少し微笑んで言いました。
M女史の送ってくれたフランス語のあいさつを応用する余裕は、その日のぼくにはまったくありませんでした。