Slim Smithと過ごす夜
今年中に終わらせようと思ったサニーデイのアルバムのミックスは、やはり終了しなさそうな予感。
しかし何曲かは、完成に手の届きそうなものもある。
スタジオの大掃除をする暇もなく、過ぎてゆく年の瀬。
自宅にいる時間も、みじかい。
子どもたちはオレのことをどういうふうに思っているのだろう。
来年こそは来年こそは、と毎年思いながら、なかなか家族でゆっくりする時間は持てない。
でもまあ、今年も思っておこう。
来年こそは、のんびり心安らかに過ごす時間がありますように。
息抜きの時間は、60年代のジャマイカの音楽。
忙しくなるとぼくは、古いスカとかロックステディを聴く比率が増えていく。
最近では、ターンテーブルではスリキズだらけの古いジャマイカ盤ばかりが回っている。
Slim Smithというシンガーがいる。
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スリム・スミスが世に出たのはビクターユースバンドの一員として。このバンドは1964年のジャマイカンフェスティバルにおいて高く評価された。
その後彼はザ・テクニークスのリードシンガーとなり、最初はデューク・リードの<トレジャーアイル>やバイロン・リーの元で数曲をレコーディングした。そのうちの"Don't Do It" と "No One"の2曲はカーティス・メイフィールドとの共同プロデュースである。
そして1965年のテクニークス解散後はザ・ユニークスを結成し何枚ものシングルを発表した。
スミスは1969年にデューク・リードのライバルであったプリンス・バスターやコクソン・ドッドのSTUDIO ONEに録音を残した。
STUDIO ONEにおける彼のナンバーは、情熱的でソウルフルでエッジのある彼の歌声をいっそう引き立たせ、スリム・スミスをジャマイカの最もグレイトなシンガーの一人にのし上がらせた。このころの録音"The New Boss"、 "Hip Hug" や "Rougher Yet"などはアルバム『Born To Love』に収録されている。
数々のヒット曲を放ったスリム・スミスは、しかし、1972年には「個人的問題」の悪化のため、ベレビューの療養所に強制入院させられる。
1973年にスミスは、彼を拒む両親の家に素手で窓を破って入ろうとし腕に大けがを負い、出血多量で死んだ。
彼の死はジャマイカ中を悲しませ、今も多くの人の心にジャマイカ最高の歌手として生きている。
(wikipedia 拙訳)
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夭折したシンガーの歌声はぼくの部屋に、甘く響く。
スリム・スミスの歌は、どこかとらえどころがなくって、彼が本当にこの世に存在したかどうかも、一瞬疑わしく感じてしまうほど。
とてもとてもあたたかい歌声につつまれながら、ぼくはなんとなく悲しくなってしまう。
たぶん彼は、はかない幻のようにひとときだけ地球に姿を現した天使なんだろう。
そんなふうに考えながら、ぼくはレコードを裏返す。