フラカンのこと

フラカンとの2マン・ツアー。とりあえず3都市、終わった。
いちおう、「曽我部BAND vs フラカン」というふうにぼく自身が銘打ったので言っておくと、
0勝2敗1引き分け、ってところだろうか。これは、完全にぼくの勝手な判断であるが。

フラカンとはもう10年の付き合いだ。
その間ずーっと、友だちである。

フラカンは大好きなバンドだったけど、正直ここまで凄い音楽になるとは、思っていなかった。
フラカンはずっと、かっこいいロックンロール・バンドだった。
本当はそれでいいはずなのに、いろんなことがあって、こんな凄まじいバンドになっちゃったのだろう。
「深夜高速」といううたを聴けば、ぜんぶ分かる。
その曲は、感動とかを通り越して、ひとつの体験として聴くものに傷痕をのこす。
あまりのリアルさに恐怖心すらおぼえる。

そのうたは「むくわれないこと」についてうたっている。
努力して、辛抱して、一生懸命、がんばって、愛し、まっすぐにいた結果、「むくわれない」ということ。
現実であれば、最終地点。いや、歌い手はとっくに最終地点に立っていただろう。
しかし矛盾したことに、この曲はどんどんと図太いエイトビートに乗っかって、進んでいくのである。
何処へ向かうかは告げられないまま。
ただ漠然と「生きていて良かったと思える」夜はどこだ、と訴える。

最初、この歌をどこかの店内放送かなにかで耳にして「いい曲だなあ」と思ったとき、ぼくはこれは「生きていて良かった!!」と喜んでいる歌かと思ったのだった。

その後、ライブ演奏で歌詞をきっちり聴いて、すこし恐ろしくなった。
果たしてこの歌は「生きていて良かったとはとうてい思えぬ」人間の作った、ただそれだけの歌だった。

しかし、その奥深くに蛇の舌のようにチラチラと微かに揺れる、生きることへの絶対的な執着の炎、それだけがぼくを震え上がらせる。

ここには「かっこいいロックンロール」の持つ知性など微塵もなく、ただただ人生の凄みだけが横たわっている。
日本語のロック(というようなものが、もし仮にあったすれば)に、頭っから冷や水をぶっかける、奇跡の一撃である。


さあ、後半戦がそろそろ始まる。
ぼくは、ワールドカップどころではないのだ。