少数派であるときに


渋谷で、ゴダールの『ありきたりの映画』を観てきた。


当然ながら「ありきたり」の映画ではない。直訳すると「あたりまえの映画」という意味らしいのだけど、なんかぼくの直感としては、「つまらない」映画、と言いたかったのではなかろうか、ゴダールは。


1968年のフランス五月革命のさなか、原っぱに座って政治的な議論をする数名の男女がえんえん映し出される。
彼らの喋ってる表情は、草むらの陰になってまったく判然としない。

彼らの会話はとめどなく四方に分散し(しょうもない話になったりもする)、そこに他の誰かの様々なモノローグもコラージュされる。

いちいち話を追っていく必要もないのだろう。

およそ100分にわたって、まあそんな感じだ。


ときおり、当時のパリの政治行動の様子がドキュメンタリーとして、インサートされる。
それらざらっとしたモノクロの記録映像は躍動感に溢れていて鮮烈でカッコいい。


しかしその集団的闘争の盛り上がりは、すぐに、円座を組んだヒッピー男女の個人的ダラダラ話によって分断されてしまうのだった。




これが映画か?と問われると、「はいそうです」としか答えようがないのだけど、その理由は説明できそうにない。


どこがおもしろいの?と問われても、映画っておもしろくなきゃいけないんですか?と返すしかないだろう。



ひょっとしたら、「つまらない」ということは、「個人的」と言い換えてもいいのかもしれない。




ゴダールは、自らの「ごくわずかの人にしか見られなかった」映画について、こんなふうに言っていて、ときとしてその言葉はぼくを勇気づけてくれる。



 でもわれわれにとっては、ある種の映画は、二、三人の人によって見られれば、それだけですでに成功した映画と言えたのです。つまり私が言いたいのは、ある女性が母親と子供の関係についての映画をつくり、その映画について自分の母親や娘と語りあうことができれば、たとえその映画を見るのがその二人だけであっても、それはすでになにかだということです。(中略)だから私が思うに、ごくわずかの人に見せるためにつくられるべき映画というものがあります。


ジャン・リュック・ゴダールゴダール 映画史(全)』(ちくま学芸文庫/奥村照夫・訳)より